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ヨゼフ・フロジャク神父の略歴

生きるということは 愛することだ。
神と人とに対する 制限なき愛を実行しよう。
実行によって このことをすべての人に知らせなさい。


─ 創立者:ヨゼフ・フロジャク神父の言葉 ─

ヨゼフ・フロジャク神父の略歴

明治19年~44年(1886年~1911年)

明治19年(1886)
3月31日、フランスのアヴェロン県ロデス市に生まる。生後五日目に受洗、洗礼名ヨゼフ。
明治29年(1896)10歳
司祭に叙階された次兄フランソアの初ミサに与り、兄の手から初聖体をうける。
明治30年(1897)11歳
小学課程の義務教育を終了。司教座聖堂付属の教会学校で二年間、一般教科とくに宗教教育を受ける。
明治31年(1898)12歳
サンピエール小神学校に入学、校長は兄フランソアであった。五年間厳格な教育を受ける。
明治36年(1903)17歳
小神学校を卒業。ロデスの神学校に入学し二年間哲学を学ぶ。
明治38年(1905)19歳
一年間兵役に服する。軍楽兵だったといい、衛生兵だったともいわれる。
明治39年(1906)20歳
パリ外国宣教会神学校に入学。当時ロデス教区は多くの司祭を輩出し、カジャク、ウィグルス等、初期日本布教に活躍した神父も同教区の出身であり、パリ外国宣教会の先輩であった。同年ソルボンヌ大学の文学部にも籍をおく。
明治42年(1909)23歳
9月、パリ外国宣教会神学校を卒業と同時に司祭に敍階、翌日東京教区派遣の命をうけ、11月21日マルセーユ出発、12月30日横浜に上陸。
明治43年(1910)24歳
1月、宇都宮教会へ赴任。先輩カジャク師の助任として働く傍ら、日本語と日本事情を学ぶ。
明治44年(1911)25歳
水戸の教会を任され、北関東各地の徒歩伝道に従事。このころ後の大越神父が師から初聖体を授かったといわれる。

大正2年~15年(1913年~1926年)

大正2年(1913)27歳
大司教の命によって東京築地教会に移り、司教座づき司祭として一年間を教区事務に従う。
大正3年(1914)28歳
第1次大戦に召集されたリサラグ師の後任として浅草教会に赴任。向こう三年間主任司祭として司牧布教に当たる。
大正7年(1918)32歳
1月7日、ドルワール師の後任として関口教会主任となる。赴任後まもなく病床に倒れ、終油の秘跡を受けるも、ルルドの聖母の祝日に突然快癒。回復後マイカイ塾長、神学校長、教区会計等を兼職、精力的な活動に寝食を忘れる。
司教、司祭の中にはこの時代に師の教えを受けた者が多い。
大正8年(1919)33歳
教皇べネジクト15世日本に最初の教皇使節を送る。皇太子殿下(昭和天皇)渡欧の際ヴァチカンを訪問される。
大正12年(1923)37歳
1月、児童会館を建設、これを舞台に以後数年間にわたって演劇運動を展開する。
9月の関東大震災により焼失した教会の再建に尽力し、罹災者救助に全力をつくす。神学校長を辞任。
大正14年(1925)39歳
健康を害し、医師のすすめにより転地避寒のため12月、海路香港、上海、ハノイを経て、サイゴン、メノン、シンガポールに遊び、翌年陽春のころ東京に帰る。
大正15年(1926)40歳
愛宕山放送局から連続講話「若い人々のために」を放送。

昭和2年~34年(1927~1959)

昭和2年(1927)41歳
7月19日、東京市中野療養所の一患者を見舞ったことから療養所訪問始まる。毎金曜日省線中野駅から一里の道を歩いて通い、全患者をひとりひとり見舞う。
皇太子妃美智子さま(当時)の祖母正田きぬ刀自、神父から洗礼を受ける。
昭和4年(1929)43歳
9月、野方町丸山に一軒の民家を借用、療養所を出されて帰るに家なき患者5名を収容・石神井関町に大神学校の新築成る。
昭和5年(1930)44歳
中野療養所に近い小川のほとりにベタニアの家建設、患者15名を収容、ここに師の後半生の歩みを定める決定的な第一歩がふみ出された。
6月27日落成式の当日、大沢忠七氏受洗、以後神父の事業を通じて受洗した数千の患者の初穂となる。
この年女子患者のため別に民家を借用して5名を収容する。カジャク師逝去、宇都宮教会の葬儀ミサで追悼説教を行なう。
昭和6年(1931)45歳
土地のごろつき新聞(当時そう呼ばれていた)ベタニアの家攻撃の記事をトップに掲載、周囲の無理解と資金難に苦しみながら事業維持のため日夜奔走。
ロゼッタ姉妹会誕生し献身的に神父の事業を助ける。五・一五事件、満州事変相次いで起こる。
昭和7年(1932)46歳
患者の子どもを救済するためナザレトの家を建設し、男児十数名を収容。しかし年末財政的に行きづまり前途暗澹たるとき、ご下賜金五千円を賜わり苦境を脱する。
皇室への敬愛の念深く心に刻まる。過労のため健康状態とみに悪化。
昭和8年(1933)47歳
療養所の患者訪問範囲広まり、中野療養所のほか東京都下十余りの施設の患者を定期的に見舞う。清瀬村に山林二万坪を購入、療養農園ベトレヘムの園を建設。男女60名の軽快者を収容する。
この年、療養所の田沢所長を始め医局員、看護婦連署してローマ教皇に感謝状を送る。日本、国際連盟を脱退。
昭和9年(1934)48歳
べトレヘムの園隣接地を買収し養護施設東星学園(現在のべトレヘム学園)を建設、ナザレトの家の学齢児33名を移し、ナザレトの家は乳児院に転換する。
五年間に五つの施設を造る繁忙の中で、依然療養所訪問を毎週欠かさず、関口教会主任司祭の職務も果たす。
昭和10年(1935)49歳
ベタニアの家、病院の認可を受け、ベトレヘムの園も香板府知事の要請黙しがたく、10月、病院の認可を受けて療養所に転換。
軽快患者のためには聖ヨゼフ寮をベトレヘム構内に開設する。死亡患者の死体処置を神父自身行なうこともしばしばだった。
この年ベトレヘム構内に聖堂を建設、小教区教会とする(現在の秋津教会)。
昭和11年(1936)50歳
学園児のため東星尋常小学校を開校、故金子直一氏を校長に迎える。職員6名。児童は付近の通学生19名を加えて52名。
数名の姉妹会員脱退し労力不足から危機に陥る。パリ外国宣教会の重鎮メイラン師、姉妹や従業員の精神的指導者としてべトレヘムの園へ着任。
クリスト・ロア会修女数名の来援を乞い、病院には花坂さめ女史を婦長に迎える。ベタニア事業によって更生の道を得た患者、回復者250名、南雲氏を発起人として報恩祈祷会をつくる。
10月、ベトレヘム構内に修道院の建物完成。姉妹の修練依頼のため海路香港におもむき、愛徳会管区長と会うも目的を達せず帰京。この年二・二六事件起こる。
昭和12年(1937)51歳
関口教会主任を辞し、事業に専念。6月、教皇庁より認可を受け、ベタニア修道女会(聖ベルナデッタ会)発足。聖心の祝日、姉妹5名が着衣し、サンモール会で修練を受ける。
東星小学校第一回卒業生4名を出す。この年日中事変起こる。11月、大本営設置。
昭和13年(1938)52歳
7月、東星尋常小学校に幼稚園を併設、べトレヘムの園構内に軽快患者用外気舎を増設。聖テレジア看護婦寮の竣工を見る。
この年、土井辰雄師東京大司教に叙階され、わが国初の邦人大司教区誕生。
昭和14年(1939)53歳
療養患者のためカトリック中央出版部より刊行の雑誌『復活』の廃刊に伴い、事業機関誌を兼ねた『るり草』を創刊、その第一号に初めて“不老若”のペンネームを使用。
4月、ベタニアの家構内に学園出身上級学校進学者のための施設「聖ヴィンセンシオ寮」を建設し、6月、ベタニアの家を拡張、定員を64名とする。
8月、朝鮮の結核施設視察の旅に出発、月末帰京。
9月、メイラン師の金祝、同10月、ベタニア修道女会修道女5名の最初の誓願式、同5名の着衣式行なわる。欧州に第二次大戦勃発。
昭和15年(1940)54歳
10月、ご下賜金を受け、べトレヘムの園に紀元二千六百年記念恩賜病棟竣工、患者収容数を倍加する。
11月、東星尋常小学校に高等科併設。神山復生病院理事を辞任、12月、岩下師逝去。
昭和16年(1941)55歳
ベトレヘムの園に13棟の外気舎新設、レントゲン室も成る。
12月、日本米英に宣戦を布告、神父の立場微妙となる。
昭和17年(1942)56歳
9月、三河島に診療所を開設、日曜、夜間の診療に応じ勤労者の便を計る。
昭和18年(1943)57歳
4月、「ベタニア事業協会」を「慈生会」と名義変更。
6月、徳田保育園を開設、働く母親たちの便に資す。
防空壕を完備し、患者、子どもたちの退避に遺憾なきを期する。灯火管制は「ベタニアさんのように」と町の防空団長が称揚するほど完璧を期した。
昭和19年(1944)58歳
8月、徳田保育園は戦時託児所に、三河島診療所は防空救護所に指定される。
戦局の悪化とともに患者、子どもの安全維持に心労ひとかたならず、ゲートルをつけ自ら陣頭に立ってその保護に気をくばる。
昭和20年(1945)58歳
空襲激化し一刻も神経の休まる時なき緊張の日々を送る。
8月、終戦を迎え、全施設が戦災を免れ、患者、子どもが無事であったことを神に感謝する。10月、北海道旅行の途次、上野地下道を通り、浮浪者の目を覆うばかりの惨状に驚き、引き返して直ちにベタニア巡回診療班を組織、12月より陣頭に立って連日浮浪者の救護活動に当たる。修道女をはじめ国吉医師、所沢剛、伊藤庄太郎医学生の諸氏これに協力。
この年、信州金沢村に土地5町歩を借り入れる。農業牧畜を主とする福祉センターの夢よみがえる。
昭和21年(1946)60歳
4月、浅草向柳原のカトリック教会付属幼稚園を借用、改装して浅草診療所を開設、上野方面への出張診療著しく容易となる。
7月、那須の旧御料地約三百町歩の貸付をうけ、直ちに 開墾を開始、秋まで約1キロの自動車道路と4町歩の畑を開き、引揚者、復員者を受け入れる。
12月、電灯線引込み、付近の村々に初めて電灯ともる。同時に仮診療所を開設。年末、天皇、皇后両陛下に拝謁、ベタニア事業の歴史、戦後社会事業の方向等につきお話し申し上げる。単独拝謁を賜わったのは、カトリック宣教師として神父が最初の人であるといわれる。
昭和22年(1947)61歳
2月、地下道への出張診療をひとまず打ち切る。この間の対象延人員は2万余名。
7月、東星中学校を開校。激増した戦災児のため学園も増築し140名の児童を収容する。
9月、天皇、皇后両陛下、那須の開墾地へ行幸啓、神父のご案内にて2時間余をおすごしになる。
10月、全国社会事業大会に功労者として表彰を受ける。この年フラナガン神父来日、慈生会の全施設を視察。
昭和23年(1948)62歳
1月、両陛下に拝謁、同31日アメリカ経由、ヨーロッパへの旅に出発。
3月、ローマでピオ十二世教皇に拝謁し、40年ぶりに故郷ロデスの生家も訪ねる。日本のため尽した功により、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られる。なおこの旅は那須開拓資金調達のためであったと思われる。6月、帰国。両陛下に旅行報告を兼ね、ピオ十二世のご伝言を奏上。この間高松宮さま、三笠宮さまがそれぞれ慈生会の施設を視察された。11月、那須診療所竣工、付近の開拓民、村民の診療に当たる。
8月、東星学園の拡張新築工事竣工。
昭和24年(1949)63歳
5月、東京都知事より表彰を受く。
7月、東星学園児、那須で最初の林間学校生活を送る。
11月、メイラン師84歳で逝去。
12月、上野駅に近い坂本二丁目に宿望の診療所を開設。プラマルティ神父、那須事業所小教区聖堂主任として着任。
昭和25年(1950)64歳
4月、板本診療所地内に上野保育園を開設。那須の建設進み、一方べトレヘムの園にも千名給食可能の炊事室、汽罐室完成。事業開始二十周年を迎え『回顧二十年』を出版。
昭和26年(1951)65歳
徳田保育園の隣接地一町歩を入手、所要建物数棟を建設のほか、これを将来の教会建設予定地とする。
7月、中国を追放されたジュニエ師、ベタニアの家づき司祭となる。
11月、ピアノのラサール・レヴィ教授、慈生会のため慈善音楽会に出演。
12月、東星出身の市川嘉男神父叙階式。那須農場の作物、品評会に入賞。
昭和27年(1952)66歳
那須聖ヨゼフの山の開墾進み、20町歩の畑が開かれた。9月、那須聖マリア山にアフタ・ケア用建物三棟完成。
7月、社会福祉法人の登記完了。結核死亡率半減記念式典にただ一人の外国人として表彰を受ける。6月来朝のヴァイオリニスト、モンブラン、ジョワ夫妻慈善演奏会に出演。徳田教会建設予定発表。
12月、東星出身の市川裕師叙階式。
昭和28年(1953)67歳
4月、ベトレヘムの園内に慈生会準看護学院開設、第一回生13名入学。
6月、シャンソンのダミア慈生会のため「シャンソンの夕べ」開催。
7月、徳田教会献堂式。
12月、高松宮さまを迎えて慈生会25周年記念祝賀会。同月、レヴィ、安川ピアノ慈善演奏会。東星小中学校卒業生、28年現在436名となる。
昭和29年(1954)68歳
7月、東星学園理事長として長年の功により双光旭日章を贈られる。8月、那須アフタ・
ケア作業場竣工。
10月、林間学校用八角堂、聖マリア山頂上に完成。さらに一町歩の養魚池、牧場も開かれ、那須の建設着々と進む。この年那須開発構想を次の通り発表する。
(1)アフタ・ケア(2)養護施設(3)高原療養所(4)林間学校施設(5)黙想の家(6)身障者施設(7)知的障害者施設(8)修道院(9)農業牧畜養魚園芸等の経営。
昭和30年(1955)69歳
ベタニアの家隣接の結核予防会桐蔭学園を建物敷地共買収、百名収容の新ベタニアの家を開設。
三河島診療所閉鎖。この夏那須林間学校施設の利用者延べ4709名におよぶ。
昭和31年(1956)70歳
6月、東星女子高等学校(定時制)を開校、10月、那須アフタ・ケアの建物を転用し精薄施設光星学園を開設、当初収容児50名。この夏心臓の衰弱甚だしく一ヵ月、静養、医薬に親しむ。
昭和32年(1957)71歳
1月、ベタニアの家医師フ・ゲントウ氏逝去。4月、木の十字架少年合唱団、徳田教会で復活祭ミサの聖歌奉仕。
慈生会一般病院建設計画を発表、5月、ベタニア、べトレヘム両療養所の退所者による“回復者の集い”行われる。
昭和33年(1958)72歳
6月、東星学園出身者による「お父さまに感謝の集い」第18回行なわれ60名参集。卒業生は小学校で22回、430名を数える。
9月、慈生会病院竣工、開院式を行なう。
10月、ベトレヘムの園敷地内に老人ホ-ム「聖家族の家」竣工祝別式。
12月、東京で国際社会事業会議開催され、厚生省、朝日新聞社から表彰を受ける。この年ベタニアの家初期の医療面で助力した矢部升医博逝去。
昭和34年(1959)73歳
1月、朝日賞(昭和33年度)受賞者に決定、賞状を贈られる。副賞の50万円をもらって「花より団子が嬉しい」と挨拶を述べた。2月、初期からの協力者オグスチナ伊藤とよじ修道女逝去。
3月20日NHKテレビ「ここに鐘は鳴る」で神父の生涯と事業紹介さる。9月、司祭叙階五十年の金祝を祝う集い。
7月、金祝記念に信者多数から贈られたルーム・クーラーを快く受け自室に取りつける。折からの炎暑に衰弱甚だしきも、なお病院の患者見舞をつづける。
9月29日清瀬町野塩にアフタ・ケア柳瀬寮竣工、これが神父の最後の仕事となった。
衰弱いよいよ加わり11月末より臥床。カトリック婦人の慈善団体暁の星会の尽力により、国連本部外交団夫人たちよりの援助金届く。このころより教皇公使、フランス大使、田中最高裁長官、安田厚生次官、葛西日赤副社長その他見舞客相次ぐ。
11月30日終油の秘跡を受け、12月12日午後9時35分「さよなら」の一語を残して帰天。
遺言は次のごときものであった。
「わたしは貧しいひとびとの友であった。わたしの葬式は貧しい人にふさわしいものにして欲しい。花は一切ご遠慮したい。思召しがあったら貧しいひとびとに与えていただきたい」。
勲四等瑞宝章を贈られ、天皇陛下より祭祀料を賜わる。